やさしさをありがとう(紙芝居)
昭和32年2月10日、デンマークの貨物船「エレンマースク号」が日ノ御碕灯台の沖を通りかかった時のことでした。
「あっ!火事だ」
マースク号の乗組員は、真っ暗い海の上で激しい北風と荒れ狂う波にもまれながら火だるまになっている船を発見しました。
その船は徳島県の「高砂丸」という船でした。
炎に包まれた船の上では乗組員が火のついた板切れなどを振り回して、助けを求めながら船上を逃げまどっていました。
「ボートを出せ、救助に向かえ!」
マースク号の乗組員たちは、荒れ狂う波と強い風をものともせず、ボートを漕ぎ出していきました。
デンマークの海の男たちは、山のようにうねり上がる波を越えて漕ぎ進んでいこうとしましたが、なかなかうまくいかず、ついにボートでの救助をあきらめ、ボートを引き上げ、マースク号が直接、助けに行くことにしました。
「ロープを投げろ!」
マースク号から何度も何度もロープが投げられました。
ただ1人残った高砂丸の乗組員が、何とかそのロープをつかむことができました。
「やったー!。これでなんとかなる。」
マースク号の甲板からも歓声が上がりました。
乗組員はそのロープをたよりに、凍りつくような冷たい嵐の海に入り、ようやくマースク号から下ろされていた綱ハシゴにたどり着くことができました。
「がんばれ!」、「あと少しだ!」
甲板の上からも励ましの声が飛び交いました。
乗組員は、冷えきって疲れきった体で必死になってはしごを登っていきました。
クヌッセン機関長は、一番近いところで彼を見守っていました。
「もう少しだ。がんばれっ!」
あとちょっとで登り切ると思ったその時、
「あっ!」
という悲鳴が甲板に沸き上がりました。
ハシゴを登っていた途中、あと少しというところで、ついに力尽きて、手をすべらせ海へ落ちてしまったのです。
思いがけないできごとに、甲板の上は、みんなぼう然としました。
その時
「なんとかしなければ…。」
船から突き出た階段の上で見ていたクヌッセン機関長は、救命ベルトを締め直しました。
甲板の上では、マースク号の乗組員たちが「ハッ!」と驚きました。
今まで、すぐそばでこの様子をじっと見ていたクヌッセン機関長が海に飛び込んでいったのです。
この凍りつくような冷たく暗い海に、乗組員を助けたい一心で、飛び込んでいったのです。
誰も止める事はできませんでした。
もちろん止めようと思っても思いとどまる機関長でもありませんでした。
その後、クヌッセン機関長はぐったりとした日本人船員を脇に抱えて、姿を見せましたが、それも一瞬のことで、荒れ狂う海はついに2人の姿を飲み込んでしまいました。
マースク号は再び救命ボートを出しましたが、強い波がボートを襲い、ボートさえも沈んでしまいました。
そのあとも一晩中、休むことなく懸命に探し続けましたが、とうとう見つけることができませんでした。
「大変だ!大変だ!外人さんの遺体が打ち上がっている。」
次の日の朝、日高町田杭港の近くの海岸は大騒ぎでした。
裂け目の入ったライフジャケットを身に付けた大きな外人さんの遺体と、その近くには胴体に大きな裂け目のあるボートが並んで打ち上げられていました。
そこへ、警察官がやってきて
「実は昨日、あの嵐の中で日本の船員を助けようとして、海に飛び込んだ人がおられるんです…。」
と言って、昨日の晩のマースク号とクヌッセン機関長の出来事を話してくれました。
それを聞いた人たちは
「えっ!あの嵐の中、日本の船員さんを助けるために海に飛び込んだ人なのか。信じられない…。」
といってその場に立ちつくし、涙を流しました。
その後、遺体の流れ着いた田杭地区では、勇気あるクヌッセン機関長の行いに感動を受け、供養の塔が建てられ、みんなで手を合わせ、いつもきれいな花が供えられ、地区の人々が交代で供養塔をきれいに掃除して、絶やすことなく
「クヌッセン機関長ありがとう。安らかにお眠り下さい。」
と祈り、感謝の気持ちを捧げ続けてきました。
このことがきっかけとなって、クヌッセン機関長の勇気と愛にあふれた行動を称えようと、美浜町日ノ岬に顕彰碑と胸像が建てられ、「クヌッセンの丘」として今も末永くその冥福と航海の安全が祈り続けられています。
遠い異国の地で、見知らぬ一人の日本人を救おうとして、命をささげたクヌッセン機関長の美しい行い。
人々の気持ちに国境のないことを私たちに教えてくれました。
クヌッセン機関長「やさしさをありがとう」